PDFファイルで読む
あなたが大切に思っているものは何ですか。
人は、自分にとっての『大切なもの』を守るために生きていますが、同時にその『大切なもの』によって支えられてもいます。人の生き方とは、何を大切にしているか、の反映なのです。
『大切なもの』が自分を苦しめる、人生の節目
A夫さん(37歳)は十代の頃に、父親が他人の保証人になって倒産してしまいました。それ以来、尊敬していた父親はイライラすると大声で怒鳴り散らして物を壊すようになり、家の中がすっかり暗くなりました。両親の夫婦仲もどんどん悪くなっていき、最終的には離婚してしまったそうです。
そのとき彼は、「自分が、何があっても倒れない経済力を手に入れれば、きっと両親も仲良くなり、家族みんなも幸せにしてあげられる」と強く思ったそうです。大人になった彼は、歩合制の仕事に就き、ずっとトップクラスの成績で頑張ってきて、今は代理店として独立しています。
ところが、3年ほど前から気力がなくなって、引きこもり気味になってきました。楽しいことをしても楽しくないし、辛いことがあるとたまらなく辛くなります。今では、一日中寝ていたいという状態だそうです。元々は活発で、冗談が好きな性格だった彼ですが、すっかり無口で無表情になってしまいました。
A夫さんのように、「お金を稼ぐことが大切なんだ」と思っている人は、お金を稼ぐためにあらゆる努力をして人生を生きていきます。同時にその気持ちに支えられているから、辛いことも乗り越えて来られたのです。
しかし成長していくと、これまで自分を支えてくれていた『大切なもの』が変わっていく時期が訪れます。
きっかけは、病気やあるいは状況の変化かも知れません。それによって自分の実力が発揮できなくなり、以前のようにお金を稼ぐことができなくなると、できない自分を責めるようになります。「お金を稼ぐことが大切なんだ」という気持ちばかりがはやってしまうからです。
こうして、人生が行き詰まってうまくいかなくなると、それまで自分を支えていてくれた『大切なもの』が、今は自分を苦しめ、疲弊させていることに直面させられます。A夫さんの父親がそうだったように、A夫さんにも人生の節目が訪れたのです。
怖れが動機の『大切なもの』は苦労して長続きしない
A夫さんのセッションはしばらく一進一退を繰り返しました。ある日のセッションでは晴れやかな顔で帰って行ったのですが、次回のセッションには案の定、浮かない顔で現れました。
「前回から10日間ぐらいは、ウツになりそうになるとポジティブなことを考えてうまくいっていました。でも、その後ウツになって、仕事のミスも重なってどん底に堕ちてしまいました。初めて妻に、泣きながら話を聞いてもらいました」と言います。
ウツの人は早く立ち直りたいと強く思っているのですが、そうやって頑張ることで、残り少ないエネルギーを使い果たしてますます落ち込んでしまいます。
「ヒプノセラピーを受けることで、どのようになりたいのですか」と私が訪ねると、
「俺は『金を稼ぐ男になりたい』と17歳のときから思っています。だから早く元気になって、バリバリ仕事ができるようになりたいのです」
「この3年間、ずっとそういう気持ちで自分を元気づけて頑張ろうとしてきたのでしょう。その結果はどうでした? うまく行きましたか? 今までと同じ生き方をしていたら、また同じ結果になると思いますよ。早く元気になってバリバリ仕事をしたい、という気持ちの強い人ほど、ウツから抜け出しにくい傾向があるのです。
17歳のとき、つらい家庭環境の中で、あなたは『金を稼ぐ男になる』と思うことで、あの時期を乗り越えることができた。そして、実際にお金を稼ぐようになって、人生はずっと良くなりましたよね? 自分の人生はこれでうまくいく、と思ったのではないですか? 『金を稼ぐ男になる』という目的があなたを勇気づけ、やる気を与えて、より良い自分に引き上げてくれました。でも、高い営業成績を維持していくのは人知れない苦労がおありになったのではないですか。ずっと頑張り続けていると、羽目を外したくなってお金の無駄遣いが多くなってきませんか」と私がたずねると、
「その通りです。成績が上がっていくにつれて、周りの期待も大きくなってきて、見栄で期待に応えようとして頑張りすぎました。それに、仕事で頑張り続けていると羽目を外したい気持ちになって、無駄遣いがやめられません。無駄な買い物をしたり、見栄で友人に振る舞ったりで多額の借金を作ってしまい、それを返すために頑張って働くと、ストレスからまた浪費したくなる…という悪循環にはまっているような状態です」とA夫さんは言います。
「『金を稼ぐ男になる』という目的は、あなたを助け支えてきてくれました、でも、しだいに苦しくなってきたのですね。今のウツ状態はあなたに、『このままではもうやっていけない。今までの生き方を変えてほしい』というメッセージなのかもしれませんね」
「今まで、あきらめることは負けることだと思っていました。だからウツになってからも頑張りました。だって、『金を稼ぐ男になる』という目的があったからこそ俺は生きて来られたんです。
でも頑張れば頑張るほどウツになっていって、しまいには頑張る気力もなくなって、あきらめざるを得ない状況ばかりが続いてきました。だからと言って、このまま頑張り続けても、この状態から抜け出せないことはわかってきました。あきらめなくてはいけないんですね…。あきらめることは負けることではない、あきらめることで苦しい状態から抜けられると頭ではわかっているのに…。あきらめたら、すべてをなくして20年前の自分に戻ってしまうような気がします。それがとても恐いのです」とA夫さんは苦しそうに答えました。
A夫さんのように、何かへの恐れが動機になっている目的や信念は、その人にとって自然なものではないので、達成するのに大変苦労します。そしてたとえ達成しても、自分自身の内側と調和が取れなくなってきてしまい、長続きしません。
本当に大切なものを、大切にする
今まで自分を支えて助けてくれてきたものをあきらめようとしても、簡単にはあきらめられないでしょう。
そういうときには、自分にとって『本当に大切なものは何なのか』を探ってみることです。この苦しい体験のなかで模索して、新たな『本当に大切なもの』と出会ったとき、今までとはまったく違う、新しい人生が動き始めます。本当に大切なものを大切にしていくと、それ以外のものがひとりでに落ちていくからです。
A夫さんは、17歳の時から『金を稼ぐ男になる』ということを目標に頑張ってきました。そこで彼に、それ以前に自分が大切にしていたことを思い出してもらいました。
「人から好かれて、人を好きになることを、漠然と大切に思っていたみたいです。だから、人を笑わせたかった。そしたら自分のことを見てもらえるから…。そうだ、自分の存在を認めてもらえることを大切にしていたようです」
父親の倒産というつらい体験をする前の彼は、『自分の存在を認めてもらう』ことを大切にしていたのです。
「そういえば独立する前の会社で、頑張って誰よりも成績をあげたのに、全然認めてもらえませんでした。だから、そこを辞めたのです」と言います。
人は、自分を認めてもらうために何かをしているとき、心のなかで、「これだけのことをしたのだから、認めてもらえますよね」という取引をしている状態になります。すると、「これだけ頑張って対価を支払ったのだから、このぐらい受けとっても当然だよな」と、認められて嬉しい感覚よりも、当然な感じの方が強くなってしまいます。対価と評価が相殺されてしまうからです。ましてや彼は、成績ではなくて自分の存在を認めてもらいたかったのだから、なおさらです。
人生の節目だからこそ感じられる嬉しさ
何にでも対価を求める資本主義の社会で暮らしていると、何もしていないそのままの自分が、「認めてもらっている」と感じられる感受性が弱くなってしまいます。
「想像してみてください。自分でも忘れていた誕生日に、親しい人からから突然バースデイカードが届いたら、どんな気持ちになりますか」
しばらく目を閉じているうちに、A夫さんの表情が弛んできました。
「不思議ですねぇ。頑張ってトップの成績をあげていたときよりも、比べものにならないくらい認めてもらっている感じがします」
そのままA夫さんに「誰か、その人の存在を認めてあげたいな、と思える人を思い浮かべてください。そして、その人をあなたの心のなかで、認めてあげてください」と伝えました。
彼は、いつも自分を助けてくれている後輩の男性を思い浮かべたそうです。
「ものすごくリラックスした感覚です。ストレスがゼロです。ありがたい。そして、嬉しいです。ただ嬉しいんです」と涙をにじませています。その男性の存在そのものを認めようとする前に、ひとりでに「ありがたい」という思いが溢れてきたそうです。
「A夫さん。あなたが今感じているこの感覚は、人から認められることで、得ようとしていた感覚ではないですか」と私が問いかけると、彼は、ハッとした表情で、「そうです! ずっとこの感覚を求めていました。頑張って成績を上げても得られなくて、もう忘れかけていた感覚です」と嬉しそうに声を震わせています。
不思議ですが、人は誰かの存在を大切に思うとき、その相手からではなく、どこからか、「自分は認められている」という感覚が湧いてきます。誰かを愛することで、「ありのままの自分が認められている」と感じられる感受性が高まってくるのかもしれません。
このワークを、『金を稼ぐ男になる』という目的を第一にして、人生が自分の思い通りになっていたときにおこなっても、ここまでA夫さんの心に沁みなかったと思います。彼自身、「どん底まで落ちた」と言う人生の節目だからこそ、心の最も深い部分で感じられたのかも知れません。
私はヒプノセラピストとして、A夫さんが今の感受性に助けられて、『本当に大切なもの』と出会い、新しい生き方を選んでいくことを見守り、サポートしていきたいと思っています。
|